河口湖までMISIAさんのライブを観に行ってきた。
ほんとうに、すべてがもう隅々まで素晴らしかった。
で、最後の最後に個人的には面白いことが起こった。
会場では各自がローソクを渡されて火をつけ、
ライブの最後にMISIAさんの号令により、心の中で願いごとを唱えながらその火を吹き消す、というパフォーマンスがあったんだけど、
その瞬間、私が思わず願ったのはいつも唱えてるような生臭いことではなく、
「尊いものの一部になりたい」という衝撃的なものであった。
我ながらビックリした。
というのは、私はいつも神社にお参りするときは「痩せたい」とか「売れたい」という世俗的なお願いしかしなかったり、
逆に「神にはなにも願ってはならない」などとカッコつけたりを周期的に繰り返してるんだけど、
昨日はそのどちらでもなく、
本当にただシンプルに「尊いものの一部になりたい」と心から願ってしまったのだった。
なんでやねん、とその後しばらくバツの悪さに口がきけないでいたんだけど、
それってよく考えてみれば、実は「売れたい」とか「痩せたい」などよりずっとハードルが高いことなのかも知れない。
でも、さらによくよく考えてみれば、
私達はおそらく既に最初から尊いものの一部なのであって、
時おり、それをMISIAさんのように意識的か無意識かで大いに体現している人を見ると、
そのことを思い出させられて胸がザワつくのかも知れない。
もちろん、人には目や耳を構成する細胞のようにそれぞれ特殊な役割があって、
たとえば私はイチローのように野球をすることはできないし、MISIAさんのように神の声をおろすこともできないんだけど、
どんな小さなことでもいいから、うんと頑張って死ぬまでに「私のように」何かをやりたい、なんてことを考えている。
なぜなら人にはそれぞれ必ず「何か」が与えられているはずで、
その与えられた「何か」を見つけて大いにまっとうすることが、
昨日、私がローソクを吹き消す瞬間に願った「尊いものの一部になる」ことだと思っているからだ。
私の好きな本のひとつに武満徹氏の『時間(とき)の園丁』という一冊があって、
その中で武満氏は自分が音楽をつくる理由としてこんなことを書いている。
「時には打ちひしがれそうになりながらも自分が音楽をやめられないのは、人間が自立し自由になるために必要な無限の時間(とき)を拓く園丁のひとりでありたいという願いが捨てられないからだ」
右も左もわからないゾウリムシだった頃にこの文に行き当たった私は、
今でもよく覚えているところをみると、ゾウリムシなりに深い深い感銘を受けたのだと思う。
あーでも私、よく考えたら今年は七夕の願いごと書くの忘れた。
〔佐伯紅緒公式ブログ 2013年7月14日〕