もうじきお盆ですね。
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学校や会社といった、いろんな種類の人がごった煮になっている場所では、
いやでも「自分と違う人」との付き合い方の筋肉が鍛えられるのですが、
自由業は「いやなら誰とも会わなくていい」という免罪符が得られる反面、
へたをすると「甕の中の鈴虫」状態になって先細りする、という危険性があります。
自由業になって10年、
自分はやはり他者とのかかわりなしには生きられないタイプなのだ、と痛感させられ、
このところ、誕生月の勢いも借りて「積極的に人と会う」ことをしています。
正直、人と会う、しかも初対面の人と会うのは恐怖を伴うものでして、
待ってる間に緊張のあまりお茶をこぼす、なんてしょっちゅうです。
だけど実際会ってみて後悔するということはめったになく、
そういう意味では「人と会う」のはスポーツジムに行くのと似てる気がする。
つまり、行くまではイヤでイヤでそれこそ逃げてしまいたいんだけど、
実際会った後は「ああスッキリ、よかった!」と思える達成感がある。
ところでぜんたい、私はどうして人と会いたいと願うのだろう、
と最近考えてみたのですが、
人に興味がある、という普通の欲求があるのはもちろんのこと、
それとは別に「今自分がどこに立っているかを知りたいから」という
考えがあるからだと気づきました。
だから、会う相手は自分と違っていればいるほど新しい発見も多く、
相手の位置から自分はどのように見えるんだろう、などと考えたりして、
その結果、自分と相手を結ぶ点と線でできる「座標軸」みたいなものが見える(気がする)。
その瞬間、自分の立ち位置が少しだけわかった気がして、
自分がこの世の中でどうやって生きていけばいいのかとか、
自分と他者がいい感じで共生していくにはどうすればいいのかとか、
そのヒントみたいなものが垣間見えた気がして、それが自分はうれしいらしい。
それは相手も同じなのではないか、とふと考えたりするのですが、
そこまで勘ぐるのは僭越だと自分を戒める反面、
もしそうだとしたら、
人と会う、というのは互いに自分が属する夜空の星座のかたちを確認する
行為なのかもしれない、と思う。
これはひとりで過ごすのをデフォルトにしてる身としては大変ありがたく、
ひとりでどうどう巡りしていた時には見えなかった考えが、
初めて会う人とたわいない話をすることでいきなりクリアになったりする。
そういうときは、もうその人が住んでいる街に向かって五体投地したくなります。
これからの人生、あといくつの出会いがあるんだろう、などと考えるのは、
きっとお盆が近いせいなんだろうと思います。
縁は極力大事にしないと。
来週、またひとつ年をとります。
〔佐伯紅緒公式ブログ 2014年8月9日〕