昨日、帰省で久しぶりに会った流山の伯父から戦争の話を聞いた。
今年77歳になる伯父は「アメリカが大好き」と言っていた。
理由は子供の頃、アメリカ兵が自分にチョコレートをくれたからだそうだ。
話にしか聞いたことのない「ギブミーチョコレート」の当事者が身内にいたことに驚いたが、終戦直後、東京の向島(空襲で丸焼けになった下町区域)に住んでいた伯父にとって、ジープから降りてきてチョコレートやガムをばらまくアメリカ兵は神様に見えたそうだ。
もちろん、そんな境遇に自分たちを追いやったのは一体どこのだれなのか、ということは頭ではわかっているけど、それでも伯父は自分にチョコレートをくれたアメリカが今でも大好きなのだという。
これが、今年87になる柴又の伯父になると少し話が違ってくる。
この伯父は空襲で死んだ人たちが隅田川にプカプカ浮いてるのを見てしまった上、一年違いで徴兵をまぬがれたため、戦後はとっとと早死にしてしまった両親に代わり、下にゾロリとならぶ腹違いの弟妹達(私の母含む)を育てなければならなかった。
柴又の伯父とはイデオロギーの話をしたことはないけれど、たぶん兄貴はアメリカは好きじゃねえだろうな、と流山の伯父は言った。
流山の伯父の話で印象に残った話があとふたつある。
ひとつは空襲が来たときにいつもの防空壕が満員で入れず、仕方なく歩いて別の壕に入れてもらったところ、本当なら自分が入るはずだった壕が爆撃を受けて全滅したという話。
3月10日の東京大空襲の時も自分の家の隣までが全焼したのに、イザ自分の家が燃える番となった途端に風向きが急にかわり、翌朝は伯父の家だけが嘘のように焼け残っていたそうだ。
戦争で生き残った人の話を聞くと、必ずこういうのが出てくる。
こういうのを聞くと、ひとの生死を分けるものは一瞬の決断と、あとなんだかんだいって最終的には運以外のなにものでもないと思う。
その当時、自分が生きていたらどうする?......と想像しかけたが、怖くなってやめた。
もうひとつは、流山の伯父が栃木県の佐野に疎開していた時の話。
伯父が窓の外を眺めていたら、突然、大量の戦車がやってきて山のほうへ向かっていった。
あまりにも大量だったので、なんだろう、と思っていたら、じつはそれは本土決戦にそなえて山の中に戦車を隠しておこう、という軍の作戦で、その時、戦車隊長としてその中にいた当時22歳の司馬遼太郎の後日談を読み、ああ、あの時のあれはこれだったのか、と思ったそうだ。
71年前の話のはずなのに、聞いていてなまなましかった。
人の昔話はタイムマシンみたいで大好きだが、それもどんどん聞ける人がすくなくなってきている。
ちなみに少ししらべたら、司馬遼太郎にとってもこの佐野の経験は大きかったらしく、この時の経験によって軍のやりかたに失望し、「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのだろう? いつから日本人はこんな馬鹿になったのだろう?」と疑問を持ち、「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」と、その後の小説を「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして書いた」とあった。
最近の流山の伯父の今の楽しみは、友達と一緒に世界の遺跡をひとつずつ旅することだという。
グラハム・ハンコック『神々の指紋』が大好きだというので、その場でデニケンの『未来の記憶』を送った。
「ニュージーランドはいいぞ、あそこは先進国だ、老後はあそこに住め」と言われたので検討している。