去年の春頃から、公私ともに激動の変化があり、
これからの人生は心が躍ることをしよう、自分に正直に生きようと決めました。
生きるためにしなければならなかったことを耐え忍んでやってきた20代。
人間関係の中でもがき苦しみ、その中で「書く」という自分の道をどうにか見つけた30代。
いろいろなことが複雑になり、「諦め」という言葉の意味を知り、体力的にも限界が見えてきて低迷していた40代。
そういったものをくぐり抜け、今、私は人生の踊り場みたいな場所へスコンと出た感じです。
これまでの人生の流れといえば、
1.いろんな目に遭い、どうにか生き延び、心身ともに自分ひとりのことはどうにかできるようになり、
2.少し余裕ができてきて、身近な人のサポートを始め、
3.さらに余裕ができ、今度は不特定多数の人になにか提供したくなってきた。
という、年齢的にも「いつまでも自分のことにばかりかまけてないで、ちったあ社会貢献せい」という段階に入ったようです。
だんだん誰かにものを相談するより相談を受けることのほうが増えてきて、
鏡を見れば明らかに年齢を重ねた自分がいる。
肌のハリとか目じりのシワとか、明らかに以前のようではないんだけど、
いいじゃないか、年とった自分。アタリがよくなった中古車みたいで。
先日、実の娘のように私をかわいがってくれていた叔母が長患いの末に亡くなり、
その死に顔をひと目見た時、「よし自由に生きるぞ」という気になりました。
幼い頃、生まれ育った柴又の土手でヨモギの葉を摘み、叔母のもとへもっていくと、
新潟生まれの叔母はそれを使って笹団子を作ってくれました。
叔母の訃報を聞き、まず私が真っ先にしたのは新潟から大量の笹団子を取り寄せることでした。
もちろん、叔母のお棺に入れるためです。
叔母の介護をしていなかった私にはそれぐらいしかできなかったんです。
そして、きれいになった叔母の胸元に笹団子を置いた時、
私は、本当に幼い頃、この人に守られていたんだ、とつくづく思い知らされました。
叔母はいわゆる昭和の主婦です。
今と違って女性にこんなに選択肢のなかった時代、叔母の世代の女性たちは、今と違ってきっといろいろな不自由があったろうと思います。
さらに心の病を抱えた叔母は、後半生は決して心やすらかな人生ではなかったはず。
叔母を抱える家族の人たちの苦しみも目の当たりにし、生きるってなんなのか、とつくづく年明けから考えさせられ、
そういう人たちの光明というか、心の支えになっているものってなんだろうと考えた時、
もちろんお金も大事ですが、
多分、明るいもの、心躍るもの、つなぐ手、笑顔、声をかける、気にかける、一緒にいる、といった、
いわゆる「光っているもの」、そして「自分はひとりではない」という安心感なんじゃないかと思いました。
年をとるとまわりでぽつりぽつりと人が死ぬようになってきて、
そのたびに「なんでやねん」という思いにとらわれます。
昔からドッヂボールでは敵の球が受けられず、
最後まで逃げ回ってひとり残り、終礼の鐘が鳴るのを待つような子供でした。
まさに、これまでの私の人生そのものです。
ですが、生まれた日より死ぬ日から数えた方が早くなってきた今となっては、
そんな千年も万年も生きる人みたいに悠長なことも言っておれず、
今、私は初めて自分から球を受けとり、相手方のコートに投げ返す練習を始めています。
すでに球に当たってコートを出て、今は相手コートの向こう側に並ぶ人たちに呆れ顔で見守られながら、
亡くなった人たちの分まで、この世界を愛していけるように。
......そんなわけで、これからはちょくちょく更新させていただきます。