猫は家にいつくというけど、私がなんでここ10年、加計呂麻島という変な名前の、奄美群島の中の小さな島に繰り返し訪れているのかとふと考えた。
ぶっちゃけ、何もない島である。
だからいつもひとりで行くし、行っても別に何もしない。
今回は珍しく漫画家の先生方をご案内したが、そんなことは例外中の例外で、基本的にはひとり旅だ。
この島に縁ができた経緯は拙著『アイランド』(徳間書店)の中で書いたけど、あれ以来なんでひとりで通い続けているのかはいまだに謎のままである。
海がきれいなのでマリンスポーツをしに来る人が多いらしいが、私が10年通い続けてやったのはせいぜいシュノーケリング一回くらいだ。
あ、釣りはする。 宿のすぐ前にある涼み台から釣り糸をたらすだけで、シマアジとかキンメダイとか、東京では料亭で出すような高級魚が、潮の具合がよければ私のような素人でもけっこう釣れる。
あとは焼酎をかっくらい、海を眺めながらボーッとするだけ。
いつも泊まる宿には縁側があり、目の前にはソテツやら蘭やらウケユリやらが咲くちいさな庭、その左側には畑があって、大根とかジャガイモとかシソなんかが植わっている。
たいがい、帰る時には宿の女将からなんらかの野菜を持たされる。
これが、嬉しいんだけどすごく重い。
大人の頭ぐらいの冬瓜を持たされた時は、さすがに港から宅急便で送った。
車だからいいでしょう、と女将は笑いながら言うけれど、彼女はレンタカーは空港で返さなければいけないという致命的な事実を忘れている。
今回は交渉の末、タンカン一袋と大根一本でようやく女将と話がついた。
帰ってすぐふろふき大根と焼き魚のおろし、たっぷりついた葉は刻んで味噌汁にしたところものすごく美味しかった。
いずれも無農薬だから食材が元気で、食べるそばから身体の中でエネルギーになっていくのがわかる。
タンカンは島のミカンで甘く、今年は不作というものの味のほうは上出来だった。
宿の縁側でぼーっとしていると、ときどきヒヨドリやメジロがやってきては畑に植わったタンカンの実をついばんでいく。
タンカンは島のイノシシも大好物で、見たことないけどうまいところだけを器用に選り分けて食べるそうな。
スダジイという、ブロッコリーみたいな木がこんもり茂った裏山を借景に、宿の庭には鳥とか猫とか珍しいチョウなんかが行き交っている。
庭の畑の向こうにはサトウキビ畑があり、背の高いサトウキビの葉がざわざわと揺れている。
その様子をなにもせず、ただ廃人のように縁側からボーッと眺める。
俳人なら句のひとつもひねるのだろうが、私はただの廃人だから生産的なことは何もしない。
たまにノートPCを持っていっても、結局開かずに終わってしまう。
だけど今回、そうしているうちに珍しくあることに気がついた。
そうか、この縁側だ。
この縁側にいる時の空気が、私が生まれ育った葛飾柴又にとてもよく似てるんだ。
長くなってしまったので続きます。