うまくいっていると思っていた人間関係が、ある日突然うまくいかなくなることがある。
それはちょっとした行き違いだったり、
ささいな意見の衝突だったり、
小さなボタンの掛け違いだったり、
まあいろいろ理由はあるのだろうけど、
結局のところ、それは「さわりがわるくなった」のだろうと最近思っている。
以前はなにかいざこざがあるたびに、
私が悪かったんじゃないかとか、
いや悪いのはあっちの方だとか、
時間が経ってからもくよくよメソメソと悩み続けたものだけど、
真実はたぶんそのどちらでもなく、
ただ単に「さわりがわるくなった」だけなのだ。
たとえば似たような夢を追う立場の人間が二人いて、
そのどちらかが急に夢を叶えたりしたらどうなるか。
誰が悪いわけでもないけど、きっと「さわりがわるくなる」ことだろう。
それを、「嫌われた」とか「裏切られた」とか、感情の問題にするから話がややこしくなるのであって、
本当は「さわりがわるくなった」とき、その相手に対して思うことは、
ただ単に「さわりがわるくなっちゃったけど、どうか元気でな」じゃなかろうか。
もともと「さわりがわるくなる」というのにはちゃんとした意味があって、
それはそもそも、なにもかもが予定調和で停滞した時、
「他の人からも刺激を受けなさいよ」という天の配剤によるものだったりする。
このあいだ聞いた話なんだけど、
ずっと若くいる秘訣というのは成長ホルモンを出し続けることであって、
そしてその成長ホルモンというのは「傷つく」ことによって出るのだという。
運動をすれば筋肉が傷つき、
人間関係がゴタゴタすれば心が傷つく。
だけど、その「負傷」によってその下に新しい細胞ができ、
その「負傷」によってその部分はそれまでより強く若くなる。
常に新しい刺激を求め続けている人が若いというのはそういうことなんだろう。
だから「さわりがわるくなる」とうのは、そういうありがたい「傷」ができる前哨戦の合図であって、
心の中のシグナルが「さあ成長する時間ですよ」と伝えてくれているのだと思う。
だから、誰かが急に冷たくなったり、
逆に自分が誰かのことを急にうとましく感じたりしたときは、
自分や相手の中にその原因を見つけ出してひとつひとつ責めるよりも、
「ああ、さわりがわるくなり始めたのだな」と気づき、早めに対処することだと思う。
思うに、このせちがらい世の中で生きるのが上手な人というのは、
この「さわりのわるさ」の対処法を知っている人じゃなかろうか。
来るものは拒まず、去る者は追わず、という昔ながらの格言は、
この「さわりのわるさ」という問題を見事にクリアしていると思う。
生きているといろんな局面に遭遇するものだけど、
この「さわりがわるい」という概念には根底に愛が流れているので、
この気持ちをもっているだけで、すべてのことに少しだけよい影響が出ると思うのです。