「なにもしないでもそこにいるだけでいい」という集団を「共同体」といい、
「なにか貢献しているからそこにいられる」という集団を「機能集団」というのだと、最近読んだ本のうちのひとつになにげなく書いてあった。
どちらがいいとか悪いとかじゃなく、どちらにもプラスとマイナスの面がある。
たとえば「共同体」だけで暮らすとだんだん人間ダレてくるし、
「機能集団」だけで暮らすと心の中が殺伐としてくる。
だけど「共同体」のもつやすらぎには人を癒す力があるし、
「機能集団」は人間の能力をぎりぎり限界まで引き出すことができる。
だけど、ほんらい「共同体」であるはずの家族が「機能集団」になってしまったり、
「機能集団」であるはずの会社が「共同体」になってしまうと、
その場にいる「個」としての自分はだんだんしんどくなる。
いちばんよいのはホームとしての「共同体」をベースにもち、
そこで十分な安心感を得た後「えいやっ」と「機能集団」に出かけていくことなのだろうけど、
なかなかそううまくいかないから悩んでいる人が多いんだろう。
フリーランスで仕事してると「共同体」と「機能集団」の線引きが難しく、
うちの場合、家に「機能」を持ち込むと途端に猫が吐くのでわかる。
動物は敏感だ。
だから、猫の健康のために極力、ノートパソコンを引っ提げて仕事は外でやるようになった。
話はがらりと変わるんだけど、毎日生きていると「ああ、この人は機能集団的な家庭で育ったのだな」という人にたまに出くわすことがある。
「機能集団化した家庭」とは、「自分が自分以外の何者かを演じなければ生き残れなかった家庭」のことで、
ほんらい無条件で愛されるべき子供が、条件付きでなければ親に愛されなかった、という大変しんどい環境だ。
そういう人は本当によく気がつくのですぐわかる。
他人の要求を敏感に察知するので、だれかに気に入られたりするのがすごく上手だ。
だけどそれは、純粋な好意からではなく「その場にいる資格を得るため」にやっているので、
その人自体の自己評価は低く、常に不安を抱えている場合がほとんどだ。
うろ覚えなので詳細は定かでないけど、ミヒャエル・エンデの「鏡の中の鏡」という短編集の中にこんな話がある。
(もし違う本だったらごめんなさい。でもエンデなのは確かです)
「試験」を待つある人がいる。
その「試験」の内容はあらかじめ知らされておらず、「試験」に合格した人は「今よりもっと上」に行けるという。
「彼」は指示を待つのだが、「試験」を待っている間、さまざまな人が彼のところに「助け」を求めてやってくる。
彼は真面目にその「助け」に答える。 答えているうちに、いつの間にか「試験」が既に終わってしまっていることに気づく。
彼は、「不合格」であった。
「他人の要求にいちいち答えないこと」、それが、彼の「試験」だったのだ。
エンデはこの話を「一回読んでも意味がわからなかった」と訴えてきた読者に対し、「ではもう10回読んでください」とあっさり言ったそうである。
他人を助けること自体は決して悪いことじゃない。 ただ、この話が言いたいのはおそらく「他人の欲求の渦の中で自分のやりたいことを見失ってはいけない」ということではないだろうか。
人は自分で思うよりもはるかに「他人の欲求」にひきずられている。
いい娘でいてほしい、とか、
よき友人であってほしい、とか、
理想の夫でいてほしい、とか、
これは全部「欲求」だ。
相手の欲求に従わないことで嫌われることを恐れ、「本当に自分がやりたいこと」をできずにいる人がいっぱいいる。
そういう人に「自分の好きにやっていいよ」などと言うと泣きそうな顔になる。
たぶん、今まで常に誰かに否定され続けて生きてきたんだろう。
そしておそらく、彼、ないし彼女を否定し続けてきた人もまた、心の中に深刻な問題を抱えている。
人が誰かに「欲求」を出す理由はたいていの場合「恐れ」である。
自分にとって都合のいい存在でいてほしい、そうでなければあなたは私を脅かす「敵」、というわけだ。
本当は敵も味方もない。
自分にとって都合のいい人と、そうでない人がいるだけだ。
しかし、親子関係でいちどこれが生じると、その後の人生が大変しんどくなる。
その場所から抜け出すには大気圏突破するのと同じくらいのエネルギーが要る。
そうやって40になっても50になっても苦闘している人を多くみかける。
ただ思うんだけど、
「自分を大切にすること」と「他人を大切にすること」は実は決して矛盾しない。
そういうことがさらりとできるのは自立している人である。
そうでない人も、まず自分を大切にすることから覚え、それから他人を大切にすることで少しずつ改善されていく。
「自分は親から必要な自己肯定感を与えられなかったので満たされていない」という自覚がある人は、
まず自分でそれを自覚し、自力でそれを満たす努力をすることから始めればいいと思う。
自分を満たす努力というのは、自分に対し、何度も何度も、「なにもしなくても、ただそこにいるだけでいいんだよ」と言い聞かせることである。
この作業に関する限り、いくつになっても遅すぎるということはない。
矛盾するようではあるけれど、ひとは「いるだけでいいんだよ」と言われると、途端になにか自分でやりたくなってくるものである。
そこには「何かしなければ自分には価値がない」という強迫観念がないゆえに、「やっていること=やりたいこと」という、のびのびとした図式が出来上がる。
これがたぶん、理想だ。
そういう作業を、ひそかに淡々と続けている人を周りに何人も知っている。
お互いに頑張ろうね、と思う。
たぶん、頑張っている人のほとんどが、どこかのレベルで常にこれを毎日少しずつやっている。
そして、もしみんながこういうことを個々のレベルでやるようになれば、
いろんなことがもう少しやさしくなるんじゃないか、という気がする。