佐伯紅緒 公式サイト Salon de ROUGE

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なんで加計呂麻島なのか(5)

Feb 15, 2013

CATEGORY : 旅

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そのメールは、いつも宿でお世話になっている宿の女将からだった。

「今朝の新聞に、チップ工場が全面撤退するって記事が出てるんだけど、どういうこと?」

びっくりした。 

あまりに唐突だったので、私なりにいろいろ調べてみた。

島の人たちの署名運動、早くからその危機に気づいていた人が本や雑誌に書いた記事、その他いろんな要因が考えられたが、本当のところはどうだったのか、結局最後までわからなかった。

ほっとした反面、まだ全然安心できないことも知った。 

同じような問題が今、日本中の離島で起こっているということ、奄美にしてもいったんは守られたけど、この先はまだわからないということ。

それを回避するためにはまず地籍の問題をしっかりさせ、やっかいなことにならないよう、法律を改正させなければいけないこと。

しかし、個人レベルでそれに協力するにはいったいどうしたらいいんだろう。

ただ縁側に寝転がり、焼酎をかっ食らっていただけの私にできることは何かないのか。 

迷い深い私をただまっすぐに受け入れてくれたあの島にできることは何かないのか。 

頭も悪いし力もないので何ができるかはわかりませんが、私は今、手の届く範囲から、できることから始めていきたいと考えています。 

今までぬくぬくと寝ころがっていた縁側がタダじゃないとわかった今、すべてが今までのように気楽にはいかないんだなと感じています。

長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。 こういう文が面白くもなんともないことは百も承知ですが、ほうっておくとあの美しい島が損なわれてしまうかと思うと、どうしてもこうやって書かずにはいられませんでした。

最後になりますが、加計呂麻島は本当にいい島です。 私はこの島が大好きです。 奄美に行く機会があったら是非訪れてみてください。

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なんで加計呂麻島なのか(4)

Feb 12, 2013

CATEGORY : 旅

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少し前から、日本の離島が少しずつ外国資本によって買われているという噂は耳にしていたが、まさか我が加計呂麻島にまでその手が伸びてきているとは思わなかった。

今の日本には外国人が土地を買うのに規制がない。だから、万一何かがあっても国にそれを止める力はない。

考えてみればスゴイ話である。 世界中、いまどきどこをみてもそんな悠長な法律が許されているのは日本だけだ。

そこで数年前から外国資本が入っているという噂のあるチップ工場が少しずつ土地を買い取り、奄美のあちこちの森林が伐採で削られ始めた。

奄美に集中豪雨が発生し、死傷者が出たのはそのすぐ後だ。

特に被害がひどかったのは、やはり伐採が行われた地域だという。

それまで激しい雨から山を守ってくれていた森がなくなったんだから当然だ。

当然、そのことを島の人から聞かされた私は驚いた。

冗談じゃない、大事な大事な避難所を奪われてたまるものか。

しかし、同時にこうも思った。

ついに、私達がこういうことで脅かされる時代が来たのか、と。

奄美に来てすぐの頃、ガイドの人からこんな説明をうけたことがある。

「この山も、昔は木が伐採されていた時期があったんですよ。 でも、そのうち東南アジアのほうからもっと安い木材が手に入るようになりましてね、それで今のような景観を保存することができたんです」

その話を聞いた時、私がまっさきに思い出したのは昔観たNHKドラマ『炎熱商人』(1984年)のことだった。

深田祐介の直木賞受賞作がドラマ化されたもので、昭和46年にフィリピンで実際に起きた邦人殺害事件を題材にしている。

日本が高度経済成長時代に周りの国にしたことを思えば、今私達が同じような目に遭いつつあるのも文句が言えないことなのかも知れない。

かつて奄美の森が守られた代わりに、フィリピンのどこかの森が犠牲になった。

歴史をたどってみる限り、そのお鉢が今再びこちらにまわってきているわけである。

だけど、それでも私は自分の縁側がなくなることは耐えられなかった。

私の故郷、柴又に似たあの空気には、なにものにも代えがたい貴重でありがたい何かがある。

それを壊すのはやめてください、と言うくらいは自由じゃないのか、と思った。

しかし、一介のしがない物書きの身、なにができるわけでもなく、できることといえばただひとり島を往復することだけだった。

私はあの島が大好きです、と、ことあるごとに人に言ってまわるだけだった。

だけどそんなある日、私のもとに一本のメールが入った。

続きます。

なんで加計呂麻島なのか(3)

Feb 11, 2013

CATEGORY : 旅

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山田洋次監督『男はつらいよ』シリーズは、当初全50本で完結する予定だったという。

それが、渥美清さんが病に倒れ、48作目の『寅次郎 紅の花』(95年)が実質的な遺作となった。

その最後の寅さんの舞台が、ここ加計呂麻島なんである。

浅丘ルリ子さん演じる寅さんの恋人・旅芸人のリリーさんの生まれ故郷がここという設定だ。

だから「紅の花」というのはたぶん、このデイゴの花のことだろう。

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初めて加計呂麻島へ行き、「寅さん」の最後のロケ地がここと知った時は本当にうれしかった。

私の中の柴又DNAが反応したのかなあ、と思った。

実際のところはわからないが、山田監督もまた、この島が柴又に似ている、とどこかで感じたのかも知れない。

柴又にはここのようにきれいな海も自然ゆたかな山もないけれど、なんというか、流れている空気感がどことなく似ているのだ。

どういう空気感かというと、一見ほんわかしているくせに、妙にありがたい、みたいな。

まるで島全体が「ご神域」みたいな不思議な島なのである。

島にまつわる「かみさま」の話は長くなるからおいといて、『寅次郎 紅の花』は、寅さんがリリーさんと一緒に島に行くところで終わっている。

送っていくよ、という寅さんに、あらどこまで? とリリーさんが聞くと、「ばかやろう、男が女を送るって時は家の前までに決まってるじゃねえか」と寅さんは言う。

「リリーさんの家」(今も残っている)には数えきれないくらい行ってるから知ってるけど、ここに行くにはまず羽田から奄美大島まで飛行機で2時間、そこから車かバスで2時間ほどかけて山を越え島の南端に行き、古仁屋の港から一日数本しかないフェリーで島に渡らねばならない。

だから、この「家の前まで」という寅さんの台詞は実質的な愛の告白なのだ。

だからなのかも知れない、と思う。 寅さんは今、本当はここにいるんじゃないかというような気がして、私はそれ以来、故郷の柴又に帰るようにこの島へ行き来している。

柴又には親戚がいるから今もたまに顔を出すが、昔の柴又と今の柴又はやっぱりどこか違っている。

私が大人になってしまったせいもあるが、今の柴又は私にとって、かつてそうであったような「絶対的な避難所」ではない。

人はだれでも「ここに来れば大丈夫」という避難所をどこかに持っているものだけど、私は失われた「自分にとっての昔の柴又」に代わり、いつの間にかこの島を「避難所」と定めてしまったのかも知れない。 

 

だから、この島が外国資本に買われ、このままだとハゲ山になってしまうと聞かされた時は本当におどろいた。

続きます。

なんで加計呂麻島なのか(2)

Feb 10, 2013

CATEGORY : 旅

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私は生まれてから小学二年生までの7年間、東京の葛飾柴又に住んでいた。 

ご存じ、「寅さん」こと山田洋次監督映画「男はつらいよ」の舞台である。

子供の頃の柴又は、まさに「寅さん」そのものの世界だった。

帝釈天の参道には煎餅屋や飴屋や草団子やだるまを売る店なんかが並んでいて、年に数回ある「庚申」の日になると縁日の屋台がならんだ。

参道をぶらぶら歩いていると、線香の匂いと共に両脇の店から煎餅を焼く醤油の匂いやおでんの匂いなんかが漂ってきた。

団子屋のショーケースの中には丸くちいさくまとめられた緑色の草団子がピラミッドみたいに積んであり、その横にこしあんの塊がドカンとゴージャスに置かれていた。

「松屋」という飴を切るパフォーマンスをやる店が有名で、白衣の職人が打楽器みたいなリズムでやわらかい飴を包丁で叩っ切る音が響いていた。

川魚を食べさせる料理屋にはたいてい店の前に大きないけすがあり、かぶせた鉄格子の隙間からうなぎや大きな鯉やらがぶつかりあいながら泳いでいた。

その川魚特有の生臭い匂いをかぎながら、キュルキュルと変な音を立てて身をくねらせるうなぎや鯉を見るのはワクワクした。

帝釈天の正門のところにはいつも傷痍軍人が立っていた。 痩せていて、いつも同じぼろぼろの軍服を着て、まともに見たことがなかったから定かじゃないが片腕だか片脚だかがなく、目を合わせるのが怖くて門を通り過ぎるときはひたすら下を向いていたのを覚えている。

あの頃、「男はつらいよ」シリーズは盆と正月に公開されていた。 だから、柴又では一年中「寅さん」のロケが行われていた。

私も父に連れられて近所の銭湯に行った帰り道、たまたま撮影現場に出くわし、渥美清さんに「いい子だね」と頭を撫でてもらったことがある。

帝釈天の境内で遊んでいると山田洋次監督に声をかけられ、「遊ぶ子供の役」としてエキストラ出演したこともあった。

(私に限らず、あの頃の柴又の子供は大抵そういう経験をしている)

当然、「男はつらいよ」は機会があるごとにテレビや映画館などで観ていた。

近所の町並や人々の姿をそのままスクリーンで見るという日常は、その後の私の人生によくも悪くも影響を及ぼしていると思う。

だから、奄美群島の加計呂麻島に縁あって初めて行ったとき、「寅さん」の最後の舞台が他ならぬこの地だったと知った時は本当に驚いた。

(詳しくはこちら)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B7%E3%81%AF%E3%81%A4%E3%82%89%E3%81%84%E3%82%88_%E5%AF%85%E6%AC%A1%E9%83%8E%E7%B4%85%E3%81%AE%E8%8A%B1


続きます。 

なんで加計呂麻島なのか(1)

Feb 09, 2013

CATEGORY : 旅

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猫は家にいつくというけど、私がなんでここ10年、加計呂麻島という変な名前の、奄美群島の中の小さな島に繰り返し訪れているのかとふと考えた。 

ぶっちゃけ、何もない島である。 

だからいつもひとりで行くし、行っても別に何もしない。

今回は珍しく漫画家の先生方をご案内したが、そんなことは例外中の例外で、基本的にはひとり旅だ。

この島に縁ができた経緯は拙著『アイランド』(徳間書店)の中で書いたけど、あれ以来なんでひとりで通い続けているのかはいまだに謎のままである。

海がきれいなのでマリンスポーツをしに来る人が多いらしいが、私が10年通い続けてやったのはせいぜいシュノーケリング一回くらいだ。

あ、釣りはする。 宿のすぐ前にある涼み台から釣り糸をたらすだけで、シマアジとかキンメダイとか、東京では料亭で出すような高級魚が、潮の具合がよければ私のような素人でもけっこう釣れる。

あとは焼酎をかっくらい、海を眺めながらボーッとするだけ。

いつも泊まる宿には縁側があり、目の前にはソテツやら蘭やらウケユリやらが咲くちいさな庭、その左側には畑があって、大根とかジャガイモとかシソなんかが植わっている。

たいがい、帰る時には宿の女将からなんらかの野菜を持たされる。

これが、嬉しいんだけどすごく重い。

大人の頭ぐらいの冬瓜を持たされた時は、さすがに港から宅急便で送った。

車だからいいでしょう、と女将は笑いながら言うけれど、彼女はレンタカーは空港で返さなければいけないという致命的な事実を忘れている。

今回は交渉の末、タンカン一袋と大根一本でようやく女将と話がついた。

帰ってすぐふろふき大根と焼き魚のおろし、たっぷりついた葉は刻んで味噌汁にしたところものすごく美味しかった。

いずれも無農薬だから食材が元気で、食べるそばから身体の中でエネルギーになっていくのがわかる。

タンカンは島のミカンで甘く、今年は不作というものの味のほうは上出来だった。

宿の縁側でぼーっとしていると、ときどきヒヨドリやメジロがやってきては畑に植わったタンカンの実をついばんでいく。

タンカンは島のイノシシも大好物で、見たことないけどうまいところだけを器用に選り分けて食べるそうな。

スダジイという、ブロッコリーみたいな木がこんもり茂った裏山を借景に、宿の庭には鳥とか猫とか珍しいチョウなんかが行き交っている。

庭の畑の向こうにはサトウキビ畑があり、背の高いサトウキビの葉がざわざわと揺れている。

その様子をなにもせず、ただ廃人のように縁側からボーッと眺める。

俳人なら句のひとつもひねるのだろうが、私はただの廃人だから生産的なことは何もしない。

たまにノートPCを持っていっても、結局開かずに終わってしまう。

だけど今回、そうしているうちに珍しくあることに気がついた。

そうか、この縁側だ。

この縁側にいる時の空気が、私が生まれ育った葛飾柴又にとてもよく似てるんだ。

 

長くなってしまったので続きます。

 

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